ほんの少し見たオリンピックの開会式

正確に言うとダイジェスト版のようなものを10分程度見た。感動した。オリンピックに対して反対する気持ちはあったし今でも十分ある。それでも尚開会式含め大会を通してテレビ釘付けになるであろう自分を想像していた。開会式に限れば実際そうなったのだけれど、何もかもが思っていた通りになったのに感情だけは思っていた通りではなかった。そこにあるのは生々しい震えるほどの感動。想像力の限界を突破する感動。何が?どの辺が?全く説明できる気がしないし、もう“したくない”のだ。小学校中学校高校の文化祭?行事?ことある度に言われてきた絆、努力、友情、成功…あぁ…これか…何年越しなのだろうか、こう言った言葉が面前に迫ってきて初めて思う“これか!これだったのか!!!”。たくさんの人が取り組み、努力している、その集大成を見ている。なんてありきたりの言葉で、ありきたりの状況で、ありきたりな感情を抱いているんでしょう。今までそういう言葉の意味を分からなかった、分かってなかったんだと分かった。常套句、定型表現、長く歩んできたようで決定的な隔絶がずっと存在していたのでは!?オーマイガッ…それと同時に気付く、オリンピックへの思い。殺人五輪なんて右翼のしょうもないタグでさえも同意出来るほど今回のオリンピックに対して素直に同意出来る俺じゃない。でも、でもだ。「でも」…この全てを超越してしまう破壊的な接続詞…でもあの感動の前には全てが霞む。いや、見終われば霞まなくなる。だが一瞬でも感動は勝った。これを恐ろしいと形容してしまう俺の早計さを呪わなくちゃいけない。揺れ動く気持ちにケリをつけて賛成か反対か決めなくちゃダメなのか?いやもうよそう、イデオロギーは他人行儀、感情と折り合いを付けようとすることが出来てもそれを達成するモチベーションなんか曖昧なものでしかあり得ない。感動したそれをそれとして受け止めた後にオリンピックを思いっきり罵倒しても良いじゃないですか。取り敢えずあの開会式に感動出来ないか?「感情の押し付けか?」EXACTLY、だが俺が押し付けても押し付けなくても俺のいうことを聞く奴なんていない…、感動できなくてもいい…言葉が先に来る前に感情を享受しろ…何か言おうとするな…ツイートを考えるな…