大学の卒業式の帰りに「ホワット・ア・ワンダプリ・ワールド‼︎」を聴いて泣きそうになってしまった話

大学の卒業式の帰りに「ホワット・ア・ワンダプリ・ワールド‼︎」を聴いて泣きそうになった。この曲が良い曲なのは明白ではあるけれど、そんなことを言いたいんじゃなくて、これで泣いたということの自覚、それも象徴的なタイミングで、それらが奇しくも自分の大学生活を振り返るに至る道程に導いたということ。

大学生になってから泣くことこそそこまでないけれど、感動することは増えた。それで、というよりそれも含めて、自己のアイデンティティ確立のために難しいものに手を出した。さらなる深い感動を求めて。悪くなかった。難しい哲学書、ニッチなアニメ、誰も知らない映画と音楽、電波なゲーム。それ相応の感動はたくさん得られたと思う。その一方でメジャーなものに敢えて手を出して、「これらも悪くない」と。表層ではそう表現していたけど、裏では浅く広くの体現のために人に評価されることを目論んでいた。だがこれを言うこと、あっけらかんに言うことってどうなんだろうか?そもそもそういう問題提起をしてジレンマを感じているのなら、それが純粋でないことが分かるだろう。でも純粋というものはない。だからこんなものは遅れている人間の発想。趣味趣向を手段として扱うのが嫌なのに、だからこそ手段として扱うことで脱手段化を図っているのに、それ自体が手段になっている。クリアな文を書くこと、明晰な思考を夢見ること。それが無理であることの自覚をすることの不可能性のへ気づき…への気づき……。言うことと言わざるべきことの明確な境界は元より侵犯可能性に満たされていて、仮にぶつ切りにしてもそこから解釈を生む。だからと言ってそこに何もないと断じたり、オルタナティヴを提示する必要性に駆られるだろうと断じることは些か早計であると。この循環を生じさせる構造と人間の相互作用的不可能性に基づく全体に抱く、不快感に鍵はあると。それをそれとして認めないことに何かある。そう思うと我々は言葉で考えている、こんなことは当たり前だが、言葉があって後に感情がある。だからこそ凄いとか楽しいとかそんなことは、そんなことを言うことは、書くことは、自分の心の中の領域(あと語彙)の虚しさと貧しさを露呈させるだけ。重要なのは痙攣的な美しさ、これはレトリカルなものでも何でもなくて、感動しすぎて言葉に詰まる、鳥肌が立つ、胸が熱くなる。こういうことが多々ある。でもそれが、そうなんだ、そこで侵犯をする。言語の上にイメージを塗る。具体的に言うと何?このブログそのものだよ。黙って噛み締めること、これがどんなに難しいか。感動を書いてしまうのだ。というか書いてしまった。感動でなくても感情を人に共有することは、重要だし、辛いこととなるとそれがなきゃ人との繋がり自体の存在理由を疑うことにすらなる。でも、これも当たり前の表現なんだけど、言葉にしてしまうと死んでしまうんだよ。人に悩みを相談するということは悩みを言語化して一緒に虐殺することに他ならない。いくら賢くなっても黙ること覚えなきゃいけないなって思う。頭でっかちの人間というのはそういう感受性がない。だから、このブログのタイトルみたいに「○○したら○○だった話」が増えてくる。それを共有することのリアクションなどを期待する。それは上手くいくだろう。でも他方一つの事件として相対化することで、自分の中の基準の相対性に飲み込まれてしまう。つまり一つのエピソードして消化されてしまう訳だ。アニメみたいなもので、最終話のための、その物語を人に教えるための、エピソードにしかならない。相対化させたらそれ自体を何かと関連させないといけなくなる。そしてその何か自体は相対化されている必要性がないのに、エピソードの洪水のなかでは相対化を余儀なくされる。絶対的なエピソードなどない。自分をイメージさせうるものなど持てない。現代人の存在の根拠のなさはこれに起因している部分もあるのではないか。黙ることが大事、でも黙ることは難しい。不意に熱いものを触って叫ぶのを我慢するのではなく、喋らなくてもいい場面で喋るのを我慢すること。「喋らなくてもいい」こんな場面に対して人間が出来るのは、誰かが喋るまで待つこと。でもネットには誰もいない。むしろネットがメインなんだから、メインの場所にいるべき人がいなければ、リアルでも人がいるとは気づかないだろう。だから止まらない、1人しかいないんだから。存在の根拠のなさの数あるうちの2つめがこれだ。でも…列挙するのはやめよう。何で?なんとなく。まず、黙らなきゃ。理由なんていくらでも思いつける。でも黙らなきゃ。喋らなくても良いんだから、喋るための理由も喋るべきでない理由もいくらでも思いつけるんだから。だからこんな長々と書いているブログは最悪だ。消しはしない、未来に残すべきである。